以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。
「現代日本様式」は、1920年代から1930年代に、日本において生まれた、日本の伝統的な要素と、現代的な要素を組み合わせた、豪華客船のインテリア(内装)の様式です。
以下、「現代日本様式」に関する説明の多くの部分は、横浜(東京areaの海の玄関口(gateway)となっている大きな港町)の、日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館(下の補足説明参照)で、2011年の8月から11月にかけて行われていた、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する展覧会(exhibition)(以下の、この展覧会(exhibition)と言います)の、パンフレット(booklet)の説明文を、要約又は抜粋・引用した物です。
日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館:日本郵船(Nippon Yusen)(下の補足説明参照)の歴史を紹介する資料館。
日本郵船(Nippon Yusen):日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ。第2次世界大戦前、日本は、イギリス、アメリカに次ぐ、世界第3位の海運(shipping・marine transportation)国でした。日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、その世界第3位の海運(shipping・marine transportation)国、日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つでした(今でも、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つであると共に、世界有数の海運(shipping・marine transportation)会社となっています)。
写真以下。「現代日本様式」の例。。。この展覧会(exhibition)の、パンフレット(booklet)より。。。
「現代日本様式」は、1920年代から1930年代に、日本において生まれた、日本の伝統的な要素と、現代的な要素を組み合わせた、豪華客船のインテリア(内装)の様式です。ヨーロッパの、古典的な様式でもなく、また、西洋の先進工業国の、現代の(当時の)流行を、そのまま取り入れるのでもなく、日本独自の、且つ、現代に合った様式と言う事で、「現代日本様式」が、生まれました。東洋の先進国である日本として、ヨーロッパの歴史や文化に対峙する為には、もはや、西洋の先進工業国の物真似ではならないと、中村 順平(nakamura jyunpei)(下の、補足説明参照)を始めとする、日本の建築家達は、思ったのかもしれません。そして、日本(及び東洋の)、伝統的な文化や芸術で挑む事こそが、欧米に対峙出来る、唯一の手段であると考えた結果、行き着いたのが、「現代日本様式」だったのでしょう。現代風のインテリア(内装)でありながら、日本の伝統工芸が、随所に散りばめられた、日本独自の、また、客船独自の装飾様式である、「現代日本様式」は、日本のデザイン(design)の、近代・現代の歴史を語る上において、重要な装飾様式の一つであると言えるでしょう。
中村 順平(nakamura jyunpei):日本の建築家。1887年生まれ。1977年に亡くなる。日本の客船のインテリア(内装)の設計の第一人者で、日本の建築家達の中で、第二次世界大戦以前において、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけた。「現代日本様式」の生みの親。

写真右上。うすりい丸(Ussuri
maru)。1932年完成。6,386トン(GT)。日本の客船。日本と大連(Dalian)を結ぶ航路で活躍)の1等(first
class)喫煙室(smoking room)。中村 順平(nakamura
jyunpei)設計。障子風に見せかけたガラス(glass)窓が、より日本的な雰囲気を演出している。天井の鳥が描かれた間接照明は、手間も、金もかかると言う事で、造船所からは反対されたが、中村
順平(nakamura jyunpei)は、諦めず、自ら、ガラス(glass)会社に発注し、完成させた。
写真左下。照国丸(terukunimaru)・靖国丸(yasukunimaru)の1等(first
class)ベランダ(veranda)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。右手に見える、漆扉は、松田 権六(matsuda
gonroku。日本の蒔絵(makie。日本の漆工芸の一つ)の、工芸家)との共同制作。日本とヨーロッパを結ぶ航路等、花形航路を多く運航する日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社は、客船のインテリア(内装)において、大阪商船(Osaka Shosen)(日本の三大海運(shipping・marine
transportation)会社の内の一つ)に比べて保守的で、ヨーロッパの古典様式を採用する事が、常でした。その様な中、日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社が、「現代日本様式」を採用した最初の客船が、照国丸(terukunimaru。日本の客船。1930年完成。11,931トン(GT))と靖国丸(yasukunimaru。日本の客船。1930年完成。11,933トン(GT)。照国丸(terukunimaru)の姉妹船)です。
写真右下。長城丸(日本の客船。1927年完成。2,594トン(GT)。日本と、中国の天津(Tianjin)を結ぶ航路で活躍)の1等(first class)階段。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。

りおでじゃねいろ丸(Rio de Janeiro maru。1930年完成。日本の客船)の1等(first class)喫煙室(smoking room)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。正面に、日本の古い鎧が見える。右手に見える漆の扉は、日本の大阪の漆工芸の工芸家、島野 三秋(shimano sansyu)による物。鎧を挟んだ、左奥の扉も、島野 三秋(shimano sansyu)の作品。

あるぜんちな丸(Argentina
maru。日本の客船。1939年完成。12,755トン(GT)))の1等(first class)食堂(dining
room・レストラン)。村野 藤吾(murano
togo)設計。壁は、総桐柾張り、窓には欄間彫刻が施され、柱には、大理石が張られた。手前の照明シェードには、蒔絵(makie)が、施され、「現代日本様式」を代表する意匠(design・装飾)である。

あるぜんちな丸(Argentina
maru。日本の客船。1939年完成。12,755トン(GT))の1等(first class)食堂(dining
room・レストラン)の、漆扉(1938年から1939年頃制作。堂本 漆軒作)。村野 藤吾(murano
togo)(下の補足説明参照)が設計した、あるぜんちな丸(Argentina maru)の1等(first class)食堂(dining
room・レストラン)の、背面の造り付け、棚扉部分を、後に、日本の、文化勲章を受賞する、堂本
漆軒(日本の漆工芸の工芸家)が制作した。あるぜんちな丸(Argentina
maru)は、1942年に、日本海軍に買い上げられ、長崎(nagasaki)造船所により、空母へと改造された。その際、家具や調度品は、陸に揚げられた為、幸運にも、漆扉だけは、第二次世界大戦による戦禍を免れた。第二次世界大戦以前の、日本の客船の家具が、ほとんど現存しない為、非常に貴重な資料である。
村野
藤吾(murano togo):村野 藤吾(murano
togo。日本の建築家。1891年生まれ。1984年に亡くなる。多数の図面資料が現存している事から、日本の建築家の中で、第二次世界大戦以前において、客船のインテリア(内装)の設計を手がけていた事を、最も知られている建築家であると言える。

新田丸(nittamaru。1940年完成。17,150総トン(GT))。日本の豪華客船。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所製。新田丸(nittamaru)・八幡丸(yawatamaru)、春日丸(kasugamaru)(八幡丸(yawatamaru)・春日丸(kasugamaru)は、新田丸(nittamaru)の姉妹豪華客船)は、日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社が、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、日本とヨーロッパを結ぶ航路に、新たに投入する計画であった豪華客船です。何れも、内装のデザイン(design)・装飾は、「現代日本様式」で纏められ、当時、世界最先端の技術と設備が投入された豪華客船として建造されました(春日丸(kasugamaru)については、建造される予定でした)。新田丸(nittamaru。17,150総トン(GT))と八幡丸(yawatamaru)。17,150総トン(GT))は、1940年に完成しました。新田丸(nittamaru)と、その姉妹船(同型船)の八幡丸(yawatamaru)の、優れた設備の例として、新田丸(nittamaru)と八幡丸(yawatamaru)には、開閉式の天井を備えた、温水のプール(swimming
pool)が設けられ、船内には、暖房設備の他、一等(first class)の、全ての客室、一等(first class)と二等(second
class)の公室(食堂(dining room・レストラン)、社交室等、乗客の共用場所)、理容室(barber
shop)、美容室等には、冷暖房装置(air
conditioner)が装備されました(新田丸(nittamaru)と八幡丸(yawatamaru)は、世界で初めて、冷暖房設備(air
conditioner)を備えた、長距離、国際航路の客船でした)。新田丸(nittamaru)、八幡丸(yawatamaru)共に、完成した時には、既に、ヨーロッパにおいて、第二次世界大戦が勃発していた事から、新田丸(nittamaru)、八幡丸(yawatamaru)共に、日本と北米を結ぶ航路の、豪華客船として就航しました。新田丸(nittamaru)は、1941年8月まで、約1年半、日本と北米を結ぶ航路の客船として就役しましたが、その後、時局の悪化により(ちなみに、日本は、1941年12月に、第二次世界大戦に参戦しました(アメリア・イギリス等との戦争に突入しました))、日本海軍に徴用され、1942年に空母に改造され、日本海軍に買収されました。八幡丸(yawatamaru)は、約1年間、日本と北米を結ぶ航路の客船として就役した後、時局の悪化により、1941年6月に、空母への改造工事に入り、1942年に、空母へと改装されると共に、日本海軍に買収されました。一方、春日丸(kasugamaru)(新田丸(nittamaru)と八幡丸(yawatamaru)の姉妹船(同型船)として、日本とヨーロッパを結ぶ航路の豪華客船として就航する予定であった船)は、時局の悪化により、完成前に、空母へと改造され、1941年に空母として完成しました。

新田丸(nittamaru。1940年完成)の、1等(first class)の社交室(中村 順平(nakamura jyunpei)設計)。日本を代表する客船の一つとして、船内は、とても豪華でした。

写真上、新田丸(nittamaru。1940年完成)の1等(first
class)社交室。中村 順平(nakamura
jyunpei)設計。正面右の、ガラス(glass)戸棚に、六歌仙(rokkasen。10世紀初めに編纂された、日本の和歌(waka。日本の詩の形態の一つ)集、古今和歌集(kokin
wakashu)に、有名な歌人(poet)として名が挙げられた、9世紀の、日本の、6人の歌人(poet))をエッチング(etching)で描く等、随所に、日本的な意匠(design・装飾)が溢れています。
写真下、八幡丸(yawatamaru。1940年完成)の、1等(first class)読書室。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。

写真右、八幡丸(yawatamaru。1940年完成)の1等(first class)階段。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所設計。

写真上。新田丸(nittamaru。1940年完成。日本の豪華客船。17,150総トン(GT))の1等(first
class)の階段。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所設計。正面、松の絵柄とともに、天井照明のデザイン(design)も、日本的である。
写真下。秩父丸(chichibumaru。1930年完成。17,526トン(GT)。日本の豪華客船。浅間丸(asamamaru)と共に、「太平洋の女王」と称された)で使用されていたと推測される、丸型、煙草盆(1930年頃)。蝶々が螺鈿で表現されている。秩父丸(chichibumaru)は、アール・デコ(Art
Deco)で設計された船内に、一部、この様な、日本的(東洋的)な意匠(design)の、調度品が用いられていた。

写真右上。八幡丸(yawatamaru。1940年完成。日本の豪華客船)の1等(first class)喫煙室(smoking room)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。

写真右上。八幡丸(yawatamaru。1940年完成)の1等(first class)社交室の、小壁薄肉彫彫刻模様。松田 軍平(matsuda gunpei)設計。

写真上。八幡丸(yawatamaru。1940年完成)の1等(first
class)社交室。松田 軍平(matsuda
gunpei。日本の建築家。1894年生まれ。1981年に亡くなる)設計。八幡丸(yawatamaru)の姉妹船である、新田丸(nittamaru)の、1等(first
class)社交室の設計を、中村 順平(nakamura
jyunpei)が設計を担当し、「現代日本様式」の真骨頂とも言える様な空間を設計していた事を強く意識したのでしょうか。。八幡丸(yawatamaru)の1等(first
class)社交室は、松田 軍平(matsuda
gunpei)の設計の中でも、とりわけ、日本的な要素が強く出ており、「現代日本様式」と呼ぶのに、ふさわしい物となっています。
写真下。新田丸(nittamaru。1940年完成)の1等(first
class)読書室。松田 軍平(matsuda
gunpei)設計。明るく軽快なイメージで設計されている。一つの豪華客船の内装を、「現代日本様式」で、総合的にデザイン(design)する一方で、あえて、部屋・空間毎に雰囲気を変え、退屈させない様な工夫もありました。

新田丸(nittamaru。1940年完成)の1等(first class)喫煙室(smoking room)。

写真左。新田丸(nittamaru。1940年完成)の1等(first
class)社交室の乾漆パネル(1940年頃制作。中村 順平(nakamura jyunpei)・松田 権六(matsuda
gonroku)作)。中村 順平(nakamura jyunpei)が設計した室内に、後に、日本の、人間国宝となる、松田 権六(matsuda
gonroku)が、中村 順平(nakamura
jyunpei)と共同で、乾漆パネルを制作した。金地に、しだれ柳と川浪の鮮やかな緑色が映える、乾漆パネルは、ゆるい曲線を描き、社交室の前後の四隅に、はめ込まれていた。
写真右下。八幡丸(yawatamaru。日本の客船。1940年完成)の1等社交室の絵画(1940年頃制作。山喜多 二郎太(yayakita jirota)作)。

八幡丸(yawatamaru。1940年完成。日本の豪華客船)の1等(first class)カフェ(cafe)ダンシングスペース(danceをする場所)。松田 軍平(matsuda gunpei)設計。正面の壁と、床の中央に、真っ赤な椿がデザイン(design)され、艶やかな空間が生まれています。

春日丸(kasugamaru)の1等(first class)喫煙室(smoking room)(高島屋(Takashimaya)(日本のデパートの、チェーン(chain)の一つ。大阪(日本の商業の中心都市)に、拠点(本店)を置く)の装飾部門が、1940年頃設計)。春日丸(kasugamaru)は、完成を待たずに空母へと改造された、幻の日本の豪華客船です。新田丸(nittamaru。日本の豪華客船。1940年完成)や春日丸(kasugamaru)の建造の頃には、日本の主要な客船の、主要な、1等(first class)の公室(乗客の共有場所)の空間の設計を、高島屋(Takashimaya)の装飾部門や、長崎(nagasaki)造船所の技師達が、手がける様になっています。彼等の設計した、客船の室内空間は、当時の、日本の有名な建築家の物と比較して、決して、見劣りする物ではありません。高い技術とデザイン(design)力を備えていたと言えます。

写真左上。新田丸(nittamaru。1940年完成)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)。三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)造船所設計。
写真右上。新田丸(1940年完成)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の椅子。三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)船所設計。
写真左下。浅間丸(asamamaru。1929年完成。16,947トン(GT)。日本の豪華客船)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)。川島(kawashima) 織物設計。
写真右下。浅間丸(asamamaru。1929年完成)の、一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)の、綴織パネル原画「桃園天平美人」(1929年)。川島(kawashima)織物制作。

新田丸(nittamaru。1940年完成)の1等(first class)プール(swimming pool)。久米 権九郎(kume gonkuro)(下の、補足説明参照))設計。
久米
権九郎(kume
gonkuro):日本の建築家。1895年生まれ。1965年に亡くなる。日光(nikko。東京近郊を代表する観光地・保養地の一つ)の、金谷(kanaya)ホテル(日光(nikko)を代表する、高級リゾート(resort)ホテル。1873年開業)や、軽井沢(karuizawa。東京圏周辺を代表する、避暑別荘地・避暑保養地)の万平(manpei)ホテル(軽井沢(karuizawa)を代表する高級リゾート(resort)ホテルの一つ。1894年開業)等、数々の、建築設計に加え、多くの住宅団地の設計を手がける等、事業にも、才能を発揮しました。来日した、ブルーノ・タウト(下の補足説明参照)とも、親交があった事でも知られています。
ブルーノ・タウト(Bruno
Taut):ドイツの、有名な建築家・都市計画家。ナチス(Nazi Party)政権下のドイツにおいて、親ソ連(Soviet
Union)派の烙印を押され、職と地位を失い、1933年から1936年にかけて、日本に亡命。1936年に、近代化を目指していたトルコの、イスタンブール(Istanbul)芸術アカデミー(Academy)からの招請により、教授としてイスタンブール(Istanbul)に移住。1938年に、長年患っていた気管支喘息の為に、同地で亡くなる。

写真上。橿原丸(kashiharamaru)(下で、説明します)の1等(first class)エントランス(玄関・入口)(吉武 東里(yoshi・take tori。日本の建築家。1886年生まれ。1945年に亡くなる)設計)のカラースキーム(1940年頃制作)。

橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)後部のエントランス(玄関・入口)の広間(吉武 東里(yoshi・take tori)設計)のカラースキーム(1940年頃制作)。

写真上。出雲丸(izumomaru)(下の補足説明参照)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)第1案(設計者不明。1941年制作)。
出雲丸(izumomaru):橿原丸(kashiharamaru)の姉妹船であり、橿原丸(kashiharamaru)と共に、日本最高の豪華客船となる計画であったが、橿原丸(kashiharamaru)と同じく、完成する事なく、空母へと改造された。

写真右。出雲丸(izumomaru)の1等(first
class)食堂(dining room・レストラン)第2案(設計者不明。1941年制作)。出雲丸(izumomaru)の1等(first
class)食堂は、第1案から第3案までのカラースキーム写真が残っている事、そして、船主(日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社)側の意向により、徐々に、第1案から遠ざかって、普通の案に成り下がってしまう事への無念が、綴られている事から、雪野
元吉(yukino
motokichi。日本の建築家。1887年生まれ。1945年に亡くなる)が設計者であった可能性が高い。柱等は、朱塗りで仕上げる事を想定していた様です。神道の神社(shrine)の鳥居を連想させる、如何にも、「現代日本様式」の設計です。
写真左。出雲丸(izumomaru)の2等(second class)喫煙室(smoking room)(設計者不明。1941年制作)。

橿原丸(kashiharamaru。1939年建造開始、1942年完成予定。27,000トン(GT))の1等(first
class)社交室(中村 順平(nakamura
jyunpei)設計)のカラースキーム(1940年制作)。橿原丸(kashiharamaru)は、日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社が、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、次々と投入する予定であった、新しい豪華客船の一つで、日本の客船史上、最高の豪華客船となるはずが(橿原丸(kashiharamaru)の2等(second
class)が、新田丸(nittamaru。日本の客船史上、最も豪華な客船の一つ)の1等(first
class)と同じ水準になるように設定された)、就航する事なく、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造されました。正面舞台は、古代の雅楽(gagaku。中国や韓国から伝わった音楽を基にした日本の伝統的音楽)が表現されており、電灯の、すぐ下には、舞楽の面、竪琴の右には、装束を着た楽人が見えます。その下、中央は、翁、千歳三番叟の一組で、中世の能楽(noh・kyogen。日本の伝統的な演劇の一つ)を表現しています。正面の扉部分には、桜と馬を引く、男の図。また、部屋の四隅には、日本の城(castle)を描いたレリーフ(relief)が見えます。これは、漆工芸の工芸家の、松田
権六(matsuda
gonroku)とともに、乾漆に金箔、銀箔、そして岩絵具を用いて彩色する予定であったと言います。完成していれば、「現代日本様式」を代表する意匠(装飾)であったに違いありません。

橿原丸(kashiharamaru)の1等読書室(久米
権九郎(kume
gonkuro)設計)のカラースキーム(1940年制作)。床の立ち上がり部分には、黒地茶模様の大理石を、柱には、ゼブラウッド(zebrawood)を採用する予定であった。床の絨毯や、正面奥の出入り口扉には、壁面漆パネルと合わせた、栗の実と葉の模様が描かれている。久米
権九郎(kume gonkuro)は、佐藤 武造(sato
takezo。日本の画家・漆工芸の工芸家)と、工場にサンプル(sample)を見学に行く等、一年がかりで、色々と設計準備を行いました。久米
権九郎(kume
gonkuro)にとって、橿原丸(kashiharamaru)が完成せずに、空母へと改造されてしまった事は、とても残念であったに違いありません。

橿原丸(kashiharamaru)の1等(first
class)喫煙室(smoking room)の、松田 軍平(matsuda
gunpei)案(1940年制作)。橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)喫煙室(smoking
room)には、村野 藤吾(murano togo)案と、松田 軍平(matsuda gunpei)案の、二つの案が、存在している。

写真上。橿原丸(kashiharamaru)の1等(first
class)喫煙室(smoking room)(村野 藤吾(murano
togo)設計)のカラースキーム(1940年制作)。黒地のソファ(sofa)に赤色の座面と言う、斬新さが見られるデザイン(design)。大阪商船(Osaka
Shosen)の客船のインテリア(内装)設計を多く手がけた村野 藤吾(murano
togo)は、橿原丸(kashiharamaru)で、初めて、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船の設計を手がけた。

写真上。橿原丸(kashiharamaru)の一等(first
class)プール(swimming pool)(前川 國男(maekawa
kunio。日本の建築家。1905年生まれ。1986年に亡くなる)建築務所設計。丹下 健三(tange
kenzo。日本の建築家。1913年生まれ。2005年に亡くなる)担当)のカラースキーム(1940年制作)。
写真下。橿原丸(kashiharamaru)の一等(first class)プール(swimming pool)(前川 國男(maekawa kunio)建築務所設計。丹下 健三(tange kenzo)担当)の初期案(1940年制作)。

写真左上。ドミニオン・モナーク(Dominion
Monarch。1939年完成。イギリスの豪華客船。27,155トン
(GT)。南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)を経由し、イギリスとオーストラリアを結ぶ航路の豪華客船として建造された。イギリスとオーストラリアを結ぶ航路の客船で、史上、最大且つ、最も豪華な客船であった)のドローイングルーム(drawing
room)の装飾(1939年制作。佐藤 武造(sato takezo。日本の画家・漆工芸の工芸家)作)。
写真右上。船名、船室不明(佐藤 武造(sato takezo)作。1940年頃と推測される)。右下に、久米(kume)建築事務所の印が押印されている。深い信頼関係の下、共同で設計していた事が、伺える。
写真下。橿原丸(kashiharamaru)1等(first
class)読書室の漆パネル習作(1940年頃制作。佐藤 武造(sato takezo)作)。佐藤 武造(sato takezo)が、久米
権九郎(kume gonkuro)とともに設計した一室。

ミス・ニッポン(Miss Nippon。1964年完成予定)の、1等(first class)社交室(設計者不詳)。実現する事なく、幻となった、1950年代末から1960年代初めの、日本の豪華客船建造計画。畳を敷き詰めたかのような床面、つつみ太鼓のような椅子等、そのインテリア(内装)は、豪華客船時代の、「現代日本様式」を引き継いでいる事が分かる。仮に、ミス・ニッポン(Miss Nippon)が、完成していたら、おそらく、当時、日本で、戦後の復興の完成を象徴する物として、ほぼ、新幹線(1964年運行開始。当時、世界最高の営業速度の鉄道)に匹敵する話題となっていた事でしょう。
現代日本様式(建築・インテリア史)後編(すぐ下でリンクを付けた投稿)へ続く。。。
現代日本様式(建築・インテリア史)後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3758727?&sfl=membername&stx=nnemon2