対馬(tsushima)は、長崎(nagasaki)県(九州(kyusyu)(日本の南部)の北部に位置する県の一つ)に属する島です。対馬(tsushima)は、面積は、約696平方km(ソウル(Seoul)特別市(面積約605平方km)より、少し広い)、人口は、約2万5千人です。対馬(tsushima)は、日本の主要な有人島(人が暮らしている島)の中で、最も、韓国に近い島で、日本の本土(九州(kyusyu)(日本の南部)の本土)から、約130km、韓国の本土(釜山(Busan))からの距離は、49.5kmで、日本の本土(九州(kyusyu)(日本の南部)の本土)からの距離よりも、韓国の本土(釜山(Busan))からの距離の方が、遥かに(ずっと)近くなっています。
前述の通り、対馬(tsushima)は、長崎(nagasaki)県に属する県ですが、交通の便は、長崎(nagasaki)(人口、約38万人(中都市(中規模程度の人口の都市)としては人口が多い。長崎(nagasaki)県で、最大の人口を有する都市、且つ、長崎(nagasaki)県の中心都市)からよりも、福岡(fukuoka)(九州(kyusyu)(日本の南部)で、唯一の大都市、且つ、九州(kyusyu)(日本の南部)の中心都市。九州(kyusyu)(日本の南部)の北部に位置する)からの方が良いです。
福岡(fukuoka)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
福岡(fukuoka)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3905228/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
対馬(tsushima)の空の玄関口(gateway)となっている、対馬(tsushima)空港へは、福岡(fukuoka)から、一日5便から6便(一日5往復から6往復)、長崎(nagasaki)から、一日3便から5便(一日3往復から5往復)程度の飛行機の便があります。
対馬(tsushima)は、船だと、客船は、福岡(fukuoka)から、高速船(一日2便(一日2往復)。福岡(fukuoka)から2時間15分から2時間30分位)と、(車を積める)通常の船(一日3便(一日3往復)。福岡(fukuoka)から4時間40分から6時間位。夜行便あり)が運行されています。
参考に、以下、「」内。私の前の投稿文より。
「アメリカや西ヨーロッパの国々では、どの街でも、少なくとも一つの、キリスト教の教会があると思いますが、それと同様に、日本では、どの街にも、一般的には、少なくとも、1つの、神道(Shinto)の神社(shrine)又は、仏教の寺、もしくは両方が存在します。こうした、神道(Shinto)の神社(shrine)と仏教の寺(特に、神道(Shinto)の神社(shrine))は、宗教と言うよりも、生活文化として、街の人々の生活の中に自然と溶け込んでいます。」
写真は、借り物(写真の作者:user:opqr)。対馬(tsushima)にある、神道(Shinto)の神社(shrine)の一つ(歴史は、神話の時代まで遡り、非常に古い)の、鳥居(torii)(神道(Shinto)の神社(shrine)の入口に設置される建造物)。
対馬(tsushima)は、韓国の、釜山(Busan)から、複数の韓国の会社が、高速船を運行しており(高速船の便数は、日本からの高速船の便数を上回っている様です)、韓国の、釜山(Busan)から、高速船で、70分から90分位です。
対馬(tsushima)は、その地理的な条件から、古くから韓国と関係が深い島です(古くから韓国と交流・交易等があった島です)。
対馬(tsushima)は、中世から(13世紀中期から)、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀の半ば)まで、宗(sou)家と言う、地方領主によって統治されていました。宗(sou)家は、近代においては、貴族となり、19世後期から第2次世界大戦後、間も無くまでは、貴族(伯爵)でした。宗(sou)家は、小規模な地方領主であったので、通常ならば、近代において、貴族(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵)の中で、下から2番目の位である、子爵となった所ですが、おそらく、統治領であった対馬(tsushima)の、韓国及び大陸(中国・アジア大陸)に近いと言う、地理的な重要性から、子爵よりも位の高い、伯爵(貴族の中で、真ん中の位)となりました。

写真は、借り物(写真の作者:As6022014)。宗(sou)家が、1663年に、対馬(tsushima)に造成した、船着き場。

写真は、借り物(写真の作者:Pontafon)。対馬(tsushima)に生息する山猫(野生の猫)である、対馬(tsushima)山猫(yamaneko)。韓国にも生息する、ベンガルヤマネコ(leopard cat)の一種。猫は、古くから(伝統的に)、日本人に、大切にされ、可愛がられて来ましたが、日本では、山猫(野生の猫)は、珍しいです。
以下、猫が、古くから(伝統的に)、日本人に、大切にされ、可愛がられて来たと言う事に関する参考の投稿。
府中市美術館 猫の絵画展→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/4010002?&sfl=membername&stx=nnemon2
山種美術館 犬派?猫派?展他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3826356/page/41?&sfl=membername&stx=nnemon2
動物百景(古い動物絵画等)展他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3828255/page/41?&sfl=membername&stx=nnemon2
ペットの話→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3634898/page/14?&sfl=membername&stx=nnemon2
対馬(tsushima)で、最も、重要な産業であり、対馬(tsushima)の中心的な産業となっているのは、漁業です。対馬(tsushima)の、その他の主要な産業は、林業や観光業(観光は、韓国からの観光客が多くなっています)となっています。対馬(tsushima)は、かつては、鉱業も盛んでした。
写真以下3枚(写真は、借り物)。対馬(tsushima)の風景例。

写真の作者:Choi2451。対馬(tsushima)の、ビーチ(beach)(海水浴場)。


以下、おまけで、基本的に、去年の6月17日の夜に行った「李王家と李王家の東京の邸宅他」と言う投稿から抜粋して来た物です(概ね再掲)。

写真は、借り物(写真の作者:Riiiisa22)。かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物(東京都心部でも中心的な地域の西部に位置する)。1930年に建てられました。第二次世界大戦後は、日本の国会(日本の国会は、衆議院(syugiin)と参議院(sangiin)の2つに分かれている)の参議院(sangiin)の議長の公邸等として使用された後、1952年に、princeホテル(日本最大の、高級classホテル・準高級classホテルのチェーン(chain))に買収され、1955年に、客室数、35室の、高級classホテル、赤坂(akasaka)princeホテルとして開業しました。赤坂(akasaka)princeホテルの、新しい建物が建てられてからは、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場等として使用されました。
赤坂(akasaka)princeホテルは、旧館(kyukan)の建物(前述した、かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物で、赤坂(akasaka)princeホテルの原点となった建物)、1960年に建てられた、別館(bekkan)(旧(かつての)新館(shinkan))の建物、1982年に建てられた、新館(shinkan)の建物、1997年に建てられた、コンベンションセンター(convention
center)の建物等から成る、規模の大きな、高級classホテルでした。

写真は、借り物(写真の作者:Wiiii)。1982年に建てられた、赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物。1980年代において、隣接する、規模の大きな高級ホテルである、ホテルnew otani(1964年に開業)の、ホテルnew otani garden tower(1974年完成)と共に、地域を象徴する建物でした。
ホテルnew otani、及び、ホテルnew otani garden towerに関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
Hotel New Otani→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3871575/page/9?&sfl=membername&stx=nnemon2
赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物の設計は、丹下 健三(tange kenzo)(下の補足説明を参照)が行いました。
丹下
健三(tange
kenzo):1913年生れ、2005年に、亡くなる。日本の世界最高水準の建築家の一人。1950年代から、亡くなる近くまで活躍。日本人建築家の中で、初めて世界に名が知られた建築家であると共に、1960年代に、日本を、現代建築設計の分野において、世界最高水準の国の一つに、引き上げた人物として知られています。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、丹下 健三(tange kenzo)に関する参考の投稿。
なまこ壁・1937年パリ万博日本館他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3905596/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
赤坂(akasaka)princeホテルは、再開発の為、2011年3月31日を以って閉業しました。
princeホテルは、赤坂(akasaka)princeホテルの跡地に、再開発によって完成した、新しい超高層ビル(2016年に完成)に、2016年に、新しい、高級ホテル、ザ・プリンスギャラリー
東京紀尾井町(The Prince Gallery Tokyo Kioicho)を開業しました。
赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物(1982年に完成)は、おそらく、東京の超高層ビルで、後述する、ソフィテル(Sofitel)東京の建物に次いで、2番目に、完成してから短い期間で、解体された建物であると同時に、2番目に解体された建物です。
赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物は、大成(taisei)建設(日本の大規模建設会社の一つで、日本の、5大建設会社の一つ)が開発した、粉塵や部材の飛散、騒音や振動を最小限に抑える、新しい工法の、「テコレップシステム(Taisei
Ecological Reproduction System)」により、解体されました。
https://youtu.be/KPTTUGxOHDQ?si=x0w1c_dLMc8QZz3n
動画は、借り物。大成(taisei)建設が開発した、最新の(世界最先端の)、大規模建築物の解体の工法により、2012年から2013年にかけて解体された、赤坂princeホテルの新館(shinkan)の建物の、解体の過程(定点撮影)。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、大成(taisei)建設に関する参考の投稿。
菊池美術館・50年代陶芸展他後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3836518/page/24?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、おまけ。参考に。。。
上野(ueno)は、東京都心部の北東部に位置する、浅草(asakusa)と並ぶ、東京の下町(東京都心部東部。旧市街)最大級の繁華街です。
上野(ueno)には、上野(ueno)公園があります。上野(ueno)公園は、東京中心部にある公園の中では、最大級の公園の内の一つであり、また、美術館・博物館等の文化施設が集まっています。
不忍(shinobazuno)池は、上野(ueno)にある、天然の池で、現在は、上野(ueno)公園の一部となっています。

写真は、借り物(写真の作者:Lover of Romance)。かつて、上野(ueno)の、不忍(shinobazuno)池の、畔(ほとり)にあった、ソフィテル(Sofitel)東京の建物。高さ110.2m。1994年完成。設計は、菊竹 清訓(kikutake kiyonori)(下の補足説明を参照)が行いました。メタボリズム(Metabolism)を感じさせる建物です。元々、日本国内資本のホテルの建物でしたが、後に、フランス資本が買収し、2000年に、フランス資本の、高級classホテル、ソフィテル(Sofitel)東京の建物となりました。再開発の為、2007年に建物が解体され(おそらく、東京の超高層ビルで、完成してから最も短い期間で、解体された建物であると同時に、東京の超高層ビルで、最初に解体された建物)、跡地には、2010年に、超高層マンション(超高層アパート)が建てられました。
菊竹
清訓(kikutake kiyonori):1928年生まれ。2011年に亡くなる。日本の有名な建築家。菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)設計事務所から、伊東 豊雄(ito
toyo。1941年生まれ。日本の世界的に有名な建築家)を始めとする多くの著名な建築家を輩出。ちなみに、現在活躍中の世界の建築家の中で、最高classにあるSANAA(妹島
和世(sejima kazuyo。1956年生まれの日本の女性建築家)&西沢 立衛(nishizawa
ryue。1966年生まれの日本の建築家))は、(菊竹 清訓(kikutake kiyonori)設計事務所出身である)伊東 豊雄(ito
toyo)の、建築設計事務所の出身です。
菊竹 清訓(kikutake kiyonori)及び、メタボリズム(Metabolism)に関しては、上でもリンクを付けましたが、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
なまこ壁・1937年パリ万博日本館他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3905596/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
不忍(shinobazuno)池に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
清水堂・不忍池他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924662/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
以上、おまけでした。
写真以下5枚(写真は、借り物)。1930年に建てられた、かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物。再開発により、曳家(hikiya)(建物を、そのまま移動して、移築する、移築方法)により、元々あった場所より少し(44m程)移動し、2016年に、再び、princeホテルが運営する、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場として、営業を再会しました。ちなみに、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の、敷地面積は、10,700坪(約35,370平方m)程あった様です。近代日本(19世紀末から第二次世界大戦時まで)において、日本の富裕層の住宅は、邸宅の敷地内に、日本伝統式の建物と西洋式の建物がある場合も多く、特に、上流階級の邸宅は、その様な邸宅が非常に多かったですが(邸宅のメイン(main)の建物が、日本伝統式の建物と西洋式の建物によって構成されている場合も、多かった)、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅のメイン(main)の建物は、この西洋式の邸宅の建物のみであった様です。
以下、参考の投稿。
旧朝香宮(asakanomiya)邸(東京都庭園美術館)前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3735149/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
旧朝香宮(asakanomiya)邸(東京都庭園美術館)後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3735148/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
写真以下5枚(写真の作者:Riiiisa22)。





1930年に建てられた、かつての、李垠(Yi Un)の東京の邸宅の建物(現在は、princeホテルが運営する、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場となっている)に関しては、以下のsiteも参照して下さい。
https://www.edo-chiyoda.jp/bunkazaihogonotorikumi/bunkazaihogochosain/hogocho2019/1/372.html
https://www.tgt-kioicho.jp/facilities/akasakaprince.html
https://akasakaprince.com/
以下、基本的に、前に行った投稿から抜粋して来た物です。
以下、おまけ。
以下、宗 武志(sou takeyuki)に関する文は、wikiを参考にしました。
宗
武志(sou
takeyuki):1908年生まれ。1985年に亡くなる。日本の、貴族(伯爵)・英語学者・大学教授。東京出身。父は、対馬(tsushima)を統治していた地方領主の弟。母は、千葉(chiba)県(東京圏の東部に位置する県)の、小規模な、地方領主の家柄。1918年、対馬(tsushima)に渡り、1920年、対馬(tsushima)中学校に入学。在学中、1923年に、伯父の子供(息子)が亡くなった事に伴い、かつての対馬(tsushima)の領主の家の、宗(sou)家の、第37代当主となる。対馬(tsushima)中学校を卒業して東京に戻り、学習院(gakushuin)高等科
(旧制)に入学。1928年、東京帝国大学(現在の東京大学)の、文学部の英文科に入学。1931年に卒業。1931年、高宗(Gojong)の娘、李徳恵(Princess
Deokhye)と結婚。宗 武志(sou takeyuki)は、妻となった李徳恵(Princess
Deokhye)を深く愛し、2人の仲は睦まじく、1年後の1932年に長女が生まれた。しかし、数年後、少女期には小康状態にあった、李徳恵(Princess
Deokhye)の、先天性精神・知能疾患が再発。宗 武志(sou takeyuki)は、学問と職務の傍ら、李徳恵(Princess
Deokhye)を献身的に介護したが、その甲斐なく、李徳恵(Princess
Deokhye)の病状は悪化の一途を辿り、1955年に、李徳恵(Princess Deokhye)の実家の要請により、李徳恵(Princess
Deokhye)と離婚した。また、李徳恵(Princess
Deokhye)との間に生まれた、一人娘(長女)も、日本人の男性と結婚したが、1956年に自殺を目的に失踪した。宗 武志(sou
takeyuki)は、1955年に、日本人の女性と再婚して、3人の子供が生まれた(長男(息子)・次女(娘)・次男(息子))。
写真は、借り物。宗 武志(sou takeyuki)。1931年頃。
写真は、借り物。写真左。宗 武志(sou takeyuki)。写真右。李徳恵(Princess Deokhye)。1931年頃。
以上、おまけでした。
ちなみに、英親王李垠伝によれば、(後述する)李垠(Yi
Un)は、お手伝いさん(maid)が、李垠(Yi Un)が自身(自分)の東京の邸宅(前述の通り、現在は、かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物は、princeホテルが運営する、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場となっている)で飼っていた小鳥を逃がしてしまった際に、お手伝いさん(maid)を叱る事なく、「あの鳥は渡り鳥だから、きっと秘苑(ソウル(Seoul)の昌徳宮(Changdeokgung)の庭園)に帰っていくだろうね」と話したようです。

写真は、借り物。李垠(Yi Un)。1928年頃に撮影。

写真は、借り物。写真右側。参謀旅行中の李垠(Yi Un)と方子(masako)女王。
以下、李垠(Yi Un)に関する文は、wikiを参考にしました。
李垠(Yi
Un):1897年生まれ。1970年に亡くなる。1907年に留学の名目で、日本に渡る。1908年、学習院(gakushuin)に入学。1911年に、日本陸軍中央幼年学校に編入する。小柄な体型のため器械体操を苦手としたが、音楽や武道を得意とし、同期生から敬愛を集めた。日本の陸軍士官学校で教育を受けた。この際には、品行で20点満点中19.7点の評価を受けるほど、模範的な学生だった。
日本の陸軍士官学校卒業後は、日本の陸軍に入隊し、日本の陸軍の将校となる。1920年に、日本の、宮家(miyake)(皇族(天皇の一族(親族))の内、天皇家から独立した生計を営み、且つ、天皇から称号(宮号)を賜り、代々、皇族(天皇の一族)の身分の保持を許された家(家族))の女性である、方子(masako)女王と結婚。政略結婚であったが、妃(妻)である方子(masako)女王と、その実家である梨本(nashimotonomiya)家との関係は良好であった。夫妻の間には、結婚の翌年に長男が誕生したが、1922年、夫妻が生後8ヶ月の長男を連れて韓国を訪問した際、長男は、急死する(長男の急死には、当時より陰謀説がある)。1931年に次男(長男が亡くなっている事により、一人息子(一人だけの子供で、男の子供))が誕生した。
第二次世界大戦の日本の敗戦に伴い、王の身分を失うと共に、日本の陸軍の将校であった為、公職追放となった。李垠(Yi
Un)は、家族と共に、韓国への帰国を試みるが、当時、日本と韓国との間には、国交は樹立されておらず、その上、李承晩大統領(Syngman
Rhee)の妨害などもあり、帰国できなかった。
夫婦の間の一人息子(一人だけの子供で、男の子供)は、アメリカに留学し、1957年にマサチューセッツ工科大学( Massachusetts
Institute of
Technology)を卒業した。夫妻が卒業式に出席するためアメリカ訪問を希望した際には、大学の招聘状を根拠に、日本政府が旅行証明書を発行した。家族でアメリカで生活を送るが、1959年、李垠(Yi
Un)が脳血栓に倒れ、日本に戻る。1963年、李垠(Yi
Un)は、妻である、方子(masako)女王と共に、ようやく、韓国に帰国を果たす。夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮内(Changdeokgung)に住居を構える事となった。1970年、夫婦は、結婚生活50周年の金婚式を病院で開くが、李垠(Yi
Un)は、その3日後に病院で、72歳で亡くなった。
韓国人となった(韓国籍を取得した)、方子(masako)女王は、李垠(Yi
Un)の、遺志を引き継ぎ、当時の韓国では、まだ進んでいなかった、障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組んだ。方子(masako)女王は、趣味でもあった七宝焼の特技を生かし、ソウル七宝研究所を設立し、自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮王朝の宮中衣装を持って、世界中を飛び回り、王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と、知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。なお、「明暉」は李垠(Yi
Un)の、「慈恵」は方子(masako)女王のそれぞれの雅号である。方子(masako)女王の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。方子(masako)女王は、1989年、87歳で亡くなり、葬儀は、韓国で、旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われた。
写真以下2枚(写真は、借り物)。李グウ(Yi U)。


1943年1月、フィリピン(Philippines)にて。
以下、李グウ(Yi U)に関する文は、wikiを参考にしました。
李グウ(Yi
U):李垠(Yi
Un)の甥。1912年、日本統治下の、韓国、ソウル(Seoul)で生まれる。1922年に日本に渡って、学習院(gakushuin)初等科に入学。その後、日本陸軍中央幼年学校を経て、1933年に、日本の陸軍士官学校を卒業。日本陸軍の軍人となる。1941年に日本の陸軍大学校を卒業。1945年8月6日、広島(hiroshima)に置かれた第二総軍の教育参謀(陸軍中佐)であった李グウ(Yi
U)は、馬に乗って司令部への出勤途中、原子爆弾の爆心地から710m付近で、アメリカ軍の原子爆弾投下に遭った。李グウ(Yi
U)は被爆後も、そのまま西方へ馬を飛ばしたが、力尽きて、抜いたサーベル(sabre)を手にしたまま、うずくまっているところを、同日の、夕方に発見され、ただちに、広島(hiroshima)市内の病院に収容されたが、翌日の午後4時過ぎに、32歳の若さで死亡した。遺体は妻と子供のいるソウル(Seoul)へ空輸され、8月15日に、ソウル(Seoul)で葬儀が行われた。
李グウ(Yi
U)の、御附武官の、日本の軍人、吉成 弘(yoshinari
hiroshi?)中佐(名前の読み方が間違っていたら済みません)は、本来なら李グウ(Yi
U)に同行しているところ、偶然水虫のため一足早く、第二総軍司令部に出勤して李グウ(Yi
U)を待っていたため、被爆死を免れた。しかし副官として自責の念に駆られ、李グウ(Yi
U)の死の直後にピストル(拳銃)自殺を遂げた。病床に就ききりでいた、吉成 弘(yoshinari hiroshi)中佐を、瀕死の李グウ(Yi
U)は、「お前の方は、体は大丈夫か」と気遣ったと言う。