以下、参考に、しばらく、前に、kjで、行った投稿の中から、抜粋して、第二次世界大戦前の、日本の造船の歴史に関して、簡単に紹介します。
以下、第二次世界大戦前の、日本の造船の歴史に関する、写真と説明文は、船の科学館と、三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館の展示に基づいた物となっています(写真は、全て、前に、kjで、アップ(upload)した写真の再利用です)。

船の科学館。船の科学館のパンフレット(leaflet)より。。。船の科学館は、1974年に開館した、東京都心部の海沿いにある、主として船に関する展示を行う、規模の大きな、海事博物館(maritime museum)です。建物の老朽化や、日本の少子化(子供が少なくなった事)による入場者数の減少等を理由として(おそらく。。。)、2011年の10月以降、実質的に、休館となっています。
ちなみに、日本では、海事博物館(maritime museum)は、他に、神戸(kobe)(関西(kansai)大都市圏(東京圏に次ぐ、日本第二の都市圏人口を有する大都市圏)に位置する都市)の、神戸(kobe)海洋博物館(1987年開館。前身は1962年に開館した神戸国際港湾博物館。海事博物館(maritime museum)としては、世界有数の規模。wikiより。。。)等が、有名です。
三菱(mitsubishi)重工業(1884年創業)は、日本最大級の重工業会社の一つであり、日本を代表する重工業会社の一つです。
日本の近代造船の歴史は、19世紀中期に始まりましたが、その後、(島国である日本において、国防上・経済(貿易)上、重要な産業であった事から)国策事業として、国の支援を受けながら、日本の造船業は、急速に成長し、日本は、造船先進国へ追いついて行きました。
三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館の展示より。。。天洋丸(tenyoumaru)(約13,000トン(GT))の模型。以下、天洋丸(tenyoumaru)に関する説明は、展示の、説明文等を参考にしました。天洋丸(tenyoumaru)(1908年に完成の、日本の、豪華客船)は、20世紀に入り、日本と、サンフランシスコ(San
Francisco)を結ぶ航路に就航した、アメリカの、大型の豪華客船に対抗する為に建造された、3隻の、日本最初の、大型の(10,000トン(GT)を超える)、豪華客船(何れも、三菱(mitsubishi)重工業製)の内の、一つです。客室の内装は、アールヌーボー(Art
Nouveau)様式で、統一されていました。
1914年に第一次世界大戦が起こり1918年まで続きました。この間、日本の造船業は、空前の好況に恵まれ、1917年には、進水量において、アメリカ、イギリスに次いで、世界3位を記録しました。
船の科学館の展示より。。。写真中央に見える大砲の様な物は、戦艦、陸奥(mutsu)(基準32,720トン(1936年の大改装後は、基準39,130トン)。1921年。日本製)の41cm主砲身の一つです。陸奥(mutsu)は、完成当時、世界最大級の主砲を有する戦艦でした。ちなみに、陸奥(mutsu)は、日本海軍の戦艦、長門(nagato)型戦艦(全て、日本製)の2番艦として建造されました。長門(nagato)型戦艦の1番艦として建造された、長門(nagato)(基準32,759トン(1936年の大改装後は、基準39,050トン)。1920年。日本製)は、完成当時(1920年)、世界最大の主砲(41cm砲)を有する戦艦であると共に、世界最大・最強・最高速の戦艦でした(wikiより)。長門(nagato)型戦艦(長門(nagato)・陸奥(mutsu))は、当時、アメリカ海軍、イギリス海軍と共に、世界三大海軍と言われた、日本海軍の象徴でした。

三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館の展示より。。。日章丸(nisyomaru)(第二次世界大戦後に建造された、日本の石油タンカー(oil
tanker)、日章丸(nisyomaru)とは、別の船)の、模型。以下、日章丸(nisyomaru)に関する説明は、展示の解説文等を参考にしました。日章丸(nisyomaru)(14,055トン)は、1938年に完成した、三菱(mitsubishi)重工業製の、日本の、石油タンカー(oil
tanker)です。第二次世界大戦前の、日本の、大型の、石油タンカー(oil
tanker)であり、あらゆる面において、最新の技術が取り入れられ、流線型の船体が美しい、石油タンカー(oil
tanker)でした。第二次世界大戦中は、同種・同規模の船としては、世界的に類を見ない速度で、日本の艦隊に随伴し、給油船として活躍しました。その、技術・性能・美しさ等から、日本の石油タンカー(oil
tanker)史上に名を残す、名船(有名な船・傑作の船)の一つと呼ばれています。
船の科学館の展示より。。。伊号第15潜水艦(1940年。基準2,198トン。常備2,584トン。水中3,654トン)の模型。伊号第15潜水艦は、日本海軍の伊15型潜水艦(全て、日本製)の一番艦で、約20隻の同型潜水艦(伊15型潜水艦)が作られました。伊15型潜水艦は、小型水上飛行機が、分解・格納された潜水艦で、小型水上飛行機は、偵察等に使われました。また、伊15型潜水艦は、その長大な航続力により、東はアメリカ西海岸から西はアフリカ東岸まで活躍し、また遣独潜水艦作戦(第二次世界大戦中に遠く離れたドイツと日本とを結び、戦略物資及び新兵器や、その部品・図面等、さらには大使館付武官・技術士官・民間技術者等の日本・ドイツ両国の人材の輸送を行った、日本海軍の潜水艦による数次にわたる作戦)に、3隻が選ばれ、大西洋まで活躍の場を広げました(wikiより)。伊15型潜水艦の、第二次世界大戦中における、活躍は、以下の物等があります。1942年、WASP(アメリカ海軍の空母。基準14,700トン。満載19,166トン。1940年)を撃沈(伊号第19潜水艦)。1942年、アメリカ本土(California州)を砲撃(伊号弟17潜水艦)。1942年、潜水艦に搭載された、小型飛行機による、アメリカ本土(Oregon州)空襲(山林火災による延焼被害や、アメリカ人に恐怖心を与える事等を企図した爆撃であり、死者・負傷者は、出ていない)及び、アメリカ本土を砲撃(伊号第25潜水艦)。ちなみに、伊15型潜水艦(伊号第25潜水艦)から飛び立った小型飛行機による、日本軍の、アメリカ本土空襲(1942年)は、歴史上、唯一の、外国の軍用機による、アメリカ本土空襲となっています。伊15型潜水艦は、アメリカ人に、アメリカ本土が攻撃されると言う恐怖を与えた、日本軍の兵器の一つであると言えるでしょう。
ちなみに、日本海軍は、第二次世界大戦末期(1944年から1945年)において、第二次世界大戦中に就航した、世界の潜水艦の中で、最大の、伊400型潜水艦(水上攻撃飛行機を3機搭載し、潜水空母とも呼ばれている)(下の補足説明参照)を製造しました(日本海軍直営の、造船所・工場製)。
伊400型潜水艦:説明は、wikiを参考にしました。基準3,530トン。常備5,223トン。水中6,560トン。理論的には、地球を一周半する事が可能と言う、長大な航続距離を持ち、日本から、地球上の、何処にでも出かけて、任意に攻撃を行い、そのまま、日本に帰る事が可能であった潜水艦。大柄な船体を持ちますが、水中性能は良好で、急速潜航に要する時間は、1分でした。伊400型潜水艦は、伊15型潜水艦(日本海軍の潜水艦)による、アメリカ本土攻撃が成功していた1942年に、18隻の建造が計画されましたが、戦局の悪化と共に、計画は、5隻に縮小され、最終的に3隻が完成しました(伊号第400潜水艦(1944年)、伊号第401潜水艦(1945年)、伊号第402潜水艦(1945年))。伊400型潜水艦が、完成した頃は、日本海軍は、アメリカ軍により、日本周辺の制海権、制空権共に失い、壊滅的な状態となっており、伊400型潜水艦は、既に、活躍出来る機会を失っていました。伊400型潜水艦は、前述の通り、三隻が完成しましたが、いずれも、具体的な戦果を上げる前に、日本が、アメリカを中心とする連合国に対して無条件降伏し、第二次世界大戦が終結しました。アメリカ軍は、戦後間もなく、伊400型潜水艦を接収し、技術調査をした後、冷戦による、当時のソビエト(Soviet)連邦への技術情報の漏洩を恐れ、海没処分にしました(破壊し、海に沈めて処分しました)。

武蔵(musashi)(基準65,000トン。満載72,809トン)の、模型。武蔵(musashi)は、1942年に完成した、三菱(mitsubishi)重工業製の、日本海軍の、戦艦(battleship)です。日本は、日露戦争(1904年から1905年にかけて、日本とロシア(Russia)の間で行われた戦争。日本の実質的な勝利に終わる)後から、第二次世界大戦まで、世界有数の海軍力を持つ国でした。武蔵(musashi)は、大和(yamato)(基準64,000トン、満載72,900トン。1941年完成。日本海軍直営の造船所製)と共に、日本海軍が建造した、世界の歴史上、最大の戦艦(battleship)です(ちなみに、歴史上、建造された艦艇(軍事用の船)に搭載された主砲の中で、一番口径の大きい主砲は、大和(yamato)型戦艦(大和(yamato)と武蔵(musashi))の46cm砲です)。日本海軍は、1944年に、それまでの歴史上、最大の空母(aircraft
carrier)、且つ、第二次世界大戦中最大の空母(aircraft carrier)(1961年、アメリカ海軍の空母(aircraft
carrier)、キティホーク (USS Kitty Hawk)(基準 61,351トン。満載
83,301トン)が登場するまで、史上最大の(史上最大の排水量の)空母(aircraft
carrier)だった。wikiより。。。)、信濃(shinano)(基準62,000トン。満載71,890トン。日本海軍直営の造船所製。大和(yamato)、武蔵(musashi)に次ぐ、三番目の大和(yamato)型戦艦を、建造中に、空母(aircraft
carrier)に設計変更した物)も、建造しています。
日本は、空母(aircraft
carrier)において、世界で、先駆的な国の一つでした。以下、「」内は、wikiを参考にしました。「空母(aircraft
carrier)の前段階の水上機母艦は、フランスのフードル(Foudre)(常備5,994トン。水上機母艦時6,089トン。水上機母艦としては、1912年に就役)が、世界で最初の物ですが、日本は、第一次世界大戦初期の1914年に(日本は、当時、日英同盟(日本・イギリス同盟)を結んでいた為、第一次世界大戦の勃発後、間もなく、ドイツに対して宣戦布告し、連合国側として参戦した)、日本海軍の水上機母艦、若宮(wakamiya)(基準5,180トン。常備5,895トン)を、ドイツ軍基地のあった中国の青島沖に派遣し、搭載機が攻撃を行いました(水上機母艦であるため、搭載機の発着は海面を用い、機体はクレーン(crane)で揚収した)。また、1922年に完成した、日本海軍の空母(aircraft
carrier)、鳳翔(housyou)(基準7,470トン。満載10,500トン)は、最初から空母(aircraft
carrier)として起工された船で、世界で最初に完成した物です(なお、鳳翔(housyou)は、あくまで、設計・開発段階の当初から純粋空母としての運行を目的として建造された空母(正規空母)で、世界で最初に完成した物。改造空母(既成の軍艦を改造して出来た空母(aircraft
carrier))は、これ以前にもイギリスとアメリカに存在し、イギリスのフューリアス(Furious)(基準22,450トン。排水28,500トン。1917年)が、世界初の空母(aircraft
carrier)であり第一次世界大戦にも参加している。また、世界で最初に、最初から空母(aircraft
carrier)として起工された船は、イギリス海軍のハーミーズ(Hermes)(基準10,850トン)であったが、ハーミーズ(Hermes)は、鳳翔(housyou)よりも遅れて完成した(最初から空母(aircraft
carrier)として起工された船で、鳳翔(housyou)に次いで、世界で2番目に、1924年に完成))」。
「また、日本が、アメリカ・イギリス等に宣戦を布告し、第二次世界大戦に参戦して間も無い、1941年12月、マレー半島(Malay
Peninsula)東方沖にて、日本海軍の爆撃機隊が、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、(当時最新鋭の戦艦(battleship))プリンス・オブ・ウェールズ(Prince
of
Wales)(1941年に完成。基準36,727トン。満載43,786トン)と、巡洋戦艦レパルス(Repulse)(1916年に完成。満載38,200トン)を撃沈しました。これは、世界史上初の、航空機の攻撃のみによる、行動中の戦艦(battleship)の撃沈であり、当時の、「作戦行動中の戦艦(battleship)を航空機で沈めることは出来ない」と言う常識を覆し、戦艦(battleship)への攻撃に、航空機が効果的である事を証明し、又、大艦巨砲主義(巨大な主砲を持つ巨大な戦艦を開発・建造し、保有する事は、その国の海軍力の証明となると言う、戦艦(battleship)中心の考え方)の転換についての示唆を与え、その後の世界各国の戦術・戦略に大きな影響を与ました」。
しかしながら、その一方において、日本海軍は、大和(yamato)・武蔵(musashi)の様な船を建造・戦力として温存し、その最終的な威力を期待していました。大和(yamato)・武蔵(musashi)には、当時の最新技術が多数採用さていましたが、史上最大の戦艦(battleship)と言う発想は、急速に時代遅れとなり、武蔵(musashi)は、(1945年に、アメリカ軍の航空隊の、激しい攻撃を受けて、沈没した、大和(yamato)と同様)、目立った活躍をする事なく、1944年に、アメリカ軍の航空隊の、激しい攻撃を受けて、沈没しました。
なお、大和(yamato)・武蔵(musashi)(当時の日本の最高技術を結集し建造された)を、設計・建造する事によって蓄積された技術は、第二次世界大戦後の、日本の産業・技術に、応用され、役立てられました。
第二次世界大戦以前から、日本は、既に、世界有数の造船技術を持っていた為、(それを基に発展した、第二次世界大戦後の日本の)造船業は、第二次世界大戦後の、日本の経済復興と経済成長の、主要な原動力の一つとなりました。日本の造船業は、1956年に、イギリスを抜いて、世界一位となりました。
以下、投稿の本文に入り、基本的に、前にkjで、行った投稿の中から、抜粋した物で、日本の昔の豪華客船の食事についてです。写真は、全て、前に、kj、又は、enjoyで、アップ(upload)した写真の、再利用です。
写真以下4枚。三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館の展示物を、解説する、三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館の、子供向けの、チラシ(leaflet)。。。これは、カラースキームに関する解説です。カラースキームは、客船の製造においては、建築家やデザイナー(designer)等がデザイン(design)した、客船の内装の、デザイン(design)画の事を言います。カラースキーム(特に、カラースキームの、最終決定版は)、カラー写真が、一般的でなかった頃の、客船の内装を知る上で、重要な資料となっています。

写真以下3枚。三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館に、収蔵・展示されている、昔の、カラースキームの例。この、解説チラシ(leaflet)より。。。
写真以下2枚。記憶が曖昧ですが、確か、何れも、1900年から1940年頃までの、日本の豪華客船の内装の、カラースキームです。


写真左側は、客室の、カラースキーム。

橿原丸(kashiharamaru。1939年建造開始、1942年完成予定。27,700トン(GT))の1等(first class)社交室のカラースキーム(設計・デザイン(design)は、中村 順平(nakamura jyunpei)(日本の建築家。1887年生まれ。1977年に亡くなる。日本の客船のインテリア(内装)の設計の第一人者で、日本の建築家達の中で、第二次世界大戦以前において、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけた)が、行いました)。橿原丸(kashiharamaru)は、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社(下の補足説明参照)が、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、次々と投入する予定であった、(三菱(mitsubishi)重工業が、建造する予定であった)、新しい豪華客船の一つで、日本の客船史上、最高の豪華客船となるはずが(橿原丸(kashiharamaru)の2等(second class)が、新田丸(nittamaru。日本の客船史上、最も豪華な客船の一つ)の1等(first class)と同じ水準になるように設定された)、戦争の影響により、就航する事なく、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造されました。正面舞台は、古代の雅楽(gagaku。中国や韓国から伝わった音楽を基にした日本の伝統的音楽)が表現されており、電灯の、すぐ下には、舞楽の面、竪琴の右には、装束を着た楽人が見えます。その下、中央は、翁、千歳三番叟の一組で、中世の能楽(noh・kyogen。日本の伝統的な演劇の一つ)を表現しています。正面の扉部分には、桜と馬を引く、男の図。また、部屋の四隅には、日本の城(castle)を描いたレリーフ(relief)が見えます。これは、漆工芸の工芸家が、乾漆に金箔、銀箔、そして岩絵具を用いて彩色する予定であったと言います。橿原丸(kashiharamaru)は、完成していたら、日本を代表する豪華客船となっていた事でしょう。
日本郵船(Nippon Yusen)株式会社:日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ。第2次世界大戦前、日本は、イギリス、アメリカに次ぐ、世界第3位の海運(shipping・marine transportation)国でした。日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、その世界第3位の海運(shipping・marine transportation)国、日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つでした(今でも、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つであると共に、世界有数の海運(shipping・marine transportation)会社となっています)。
1930年代当時、アメリカとカナダの会社も、北米と日本の間に、豪華客船を走らせていましたが、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社も、当時、太平洋航路向けの主要な豪華客船としては、6隻の豪華客船を保有し、日本と北米を結んでいました。当時の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、太平洋航路向けの主要な豪華客船は、日本とシアトル(seattle)、バンクーバー(Vancouver)を結ぶ、比較的小さな豪華客船3隻と、日本と、サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ、比較的大きな豪華客船3隻です。この6隻の中で、代表的な、1929年に完成し、運航を開始した、横浜とホノルル(Honolulu)、サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ浅間丸(asamamaru)は、他の同社の日本とサンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ豪華客船同様に、日本とシアトル(seattle)、バンクーバー(Vancouver)を結ぶ豪華客船よりも一回り大きく、約17,000トン(GT)あり、また、同社の日本と北米を結ぶ豪華客船の中でも取り分け豪華で、「太平洋の女王」と呼ばれたそうです。
以下2枚の写真は、借り物。

1929年に完成し、運航を開始した、三菱(mitsubishi)重工業製の、日本とホノルル(Honolulu)、サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ、日本の豪華客船、浅間丸(asamamaru)(約17,000トン(GT))。食堂(dining room・レストラン)の内装には、贅沢に、イタリア産の大理石が使われ、客室内には、当時最先端の設備が使われていました。当時、「太平洋の女王」と呼ばれました。以下、浅間丸(asamamaru)に関する説明は、三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館の、展示解説を参考にしました。浅間丸(asamamaru)は、主要な部分の内装の、設計・デザイン(design)・製作は、イギリスの装飾会社に依頼され、客室全体は、イギリスの、クラシック(伝統)調で纏められていました。
写真、すぐ下。浅間丸(asamamaru)、又は、浅間丸(asamamaru)と同じく日本とSan Franciscoを結んだ、浅間丸(asamamaru)と同級の、約17,000トン(GT)の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船、龍田丸(tatsutamaru)(どちらか分からない)の、2等(second class)客用の食堂(dining room)。
写真、すぐ上。浅間丸(asamamaru)、又は、浅間丸(asamamaru)と同じく日本とSan Franciscoを結んだ、浅間丸(asamamaru)と同級の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船、龍田丸(tatsutamaru)(どちらか分からない)の、2等(second class)客用のラウンジ(lounge)。
写真以下9枚。三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館の、鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))に関する、テーマ展示より。。。
写真以下2枚。鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、模型等。以下、鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))についての説明は、展示の解説文等を参考にしました。鎌倉丸(kamakuramaru)(約17,500トン(GT)))は、1930年に完成し、運航を開始した、三菱(mitsubishi)重工業製の、日本とホノルル(Honolulu)、サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ、日本の豪華客船です。鎌倉丸(kamakuramaru)(当初、秩父丸(chichibumaru)と命名されたが、後に、鎌倉丸(kamakuramaru)と改名された)は、1930年代において、浅間丸(asamamaru)と共に、日本とホノルル(Honolulu)、サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ航路で活躍していた、浅間丸(asamamaru)と姉妹船の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船の一つです。外観は、浅間丸(asamamaru)が、煙突が2本であったのに対し、鎌倉丸(kamakuramaru)が、1本であったのが特徴です。客室は、フランス及び、イギリスの、近代様式を取り入れて、モダンで、洒落た雰囲気で飾られ、浅間丸(asamamaru)とは、対照的な、華やいだ、雰囲気でした。鎌倉丸(kamakuramaru)は、その豪華さ等から、浅間丸(asamamaru)と共に、「太平洋の女王」と呼ばれていました。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))。この、テーマ展示の、チラシ(leaflet)より。。。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の模型。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1等(first class)食堂(dining room・レストラン)の、カラースキーム。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1等(first class)食堂(dining room・レストラン)の、写真。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1等(first class)喫煙室(smoking room)の、写真。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1等(first class)プール(swimming pool)の、カラースキーム。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1等(first class)プール(swimming pool)の、詳細なデザイン(design)画、又は、写真。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、二等(second class)食堂(dining room・レストラン)の、カラースキーム。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、二等(second class)喫煙室(smoking room)の、カラースキーム。
写真以下2枚。参考に、横浜にある、日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が運営する、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の歴史に関する資料館)の展示より。。。前にenjoyでアップ(upload)した写真の再利用。

1937年の、ある日の、日本の(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の)、豪華客船(国際航路向けの長距離客船)の夕食を、(蝋で)、再現したものです。

これも、1930年代の、日本の(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の)、豪華客船(国際航路向けの長距離客船)の食事を、(蝋で)、再現したものです 。盛り付けは、やや、古臭い(古典的な)感じですが、食事は、現在と、それ程は、変わらないかも知れません。
写真以下3枚。三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館の、鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))に関する、テーマ展示より。。。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1933年の1月1日の、しっかりとした、日本料理の、献立表(menu)。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1939年の、ある日の(6月8日の)、昼食メニュー(menu)。間違っていたら、申し訳ありませんが、おそらく、食事の代金は、乗船の代金に含まれていて、大食な人(たくさん、食べる人)は、これを、全部食べても良いし、こんなに、たくさん食べられないと言う人は、この中から、好きな物を選んで、注文しても良いと言う、方式になっていると思います。
以下、鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1939年の、6月8日の、昼食メニュー(menu)の内容。
スープ(soup):澄んだスープ(soup)。濃厚なスープ(soup)。
魚料理:鰈の、焼き物(蒸し焼き)。鯛の、焼き物(網焼き)。
玉子料理:ポーチドエッグ(poached egg )。松茸(matsutake)(香の良い、高級な茸)入りの、オムレツ(omelette)。
煮込み(煮物)料理:厳選された肉、豚肉、牛タン(牛の舌)の煮物、野菜添え。鳩肉(鳩の肉)の、蒸し焼き。ドライカレー(日本の、カレー(curry)料理の一つ)。
野菜料理:様々な野菜の天婦羅。茹でた、ジャガイモ(potato)。サツマイモ(sweet potato)の揚げ物。丸ごと焼いた、焼き林檎(林檎の焼き物)。
焼き物料理:フィラデルフィア (Philadelphia)風、鶏肉の焼き物。ハムステーキ(ham steak)、玉葱の、天婦羅添え。
冷たい肉:厳選された肉の、ロース(loin)。ハム(ham)。牛タン(牛の舌)の燻製。仔牛(子牛)(veal)の、ロース(loin)。羊肉の、ロース(loin)。鵞鳥肉(鵞鳥の肉)の、ロース(loin)。モルタデッラ(mortadella)。
サラダ(salad):様々な、野菜。
デザート(dessert):様々な果物が入った、ゼリー(jelly)。桃のパイ(pie)。アイスクリーム(ice cream)。小菓子(クッキー(cookie)、チョコレート等)。果物、シチュー(stew)。
パン:様々なパン。
果物、その他:林檎。バナナ(banana)。マスクメロン(muskmelon)。様々な、ドライフルーツ(dried fruit)。様々な、ナッツ(nuts)。 クラッカー(cracker)。緑茶(green tea)。紅茶。ウーロン(oolong)茶。コーヒー(coffee)。
鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1930年の、ある日の(11月13日の)、夕食メニュー(menu)の、英語版。間違っていたら、申し訳ありませんが、おそらく、食事の代金は、乗船の代金に含まれていて、大食な人(たくさん、食べる人)は、これを、全部食べても良いし、こんなに、たくさん食べられないと言う人は、この中から、好きな物を選んで、注文しても良いと言う、方式になっていると思います。
以下、鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1930年の、11月13日の、夕食メニュー(menu)の、内容。
前菜:西瓜、ホイップクリーム(whipped cream)添え。生ハム(ham)。ニシン(鰊)(魚)の、酢漬け。ox palate のピクルス(pickled ox palate)。ピーナツ(peanuts)。オリーブ(olive)。
スープ(soup):チキン(chicken)スープ(soup)。ホワイトセロリ(white celery)の、濃厚な、スープ(soup)。
魚料理:クサヤモロ(mackerel scad)の、焼き物。
entree:ビーフ・ウェリントン(Beef Wellington)。シビレ(sweetbread)の料理。カリフラワー(cauliflower)のサラダ(salad)。
肉料理:羊肉の、ロースト(roast)、スグリ(red currant)のゼリー(jelly)添え。プラム(plum)を詰めた、ヤマシギ(woodcock)の、ロースト(roast)、グレイビーソース(gravy)添え。
冷たい料理:牛タン(牛の舌)の、燻製。ターキー(turkey)、トリュフ(truffle)添え。サラダ(salad)胡瓜。
その他:ジャガイモ(potato)。ご飯(rice)。Italian Squash。鮪の刺身。豆腐の、お吸い物。
デザート(dessert)等:Newcastle Pudding、パイナップルアイスクリーム(pineapple ice cream)等の、甘いデザート(dessert)。savoury。様々な、ナッツ(nuts)。無花果(fig)。chow chow。林檎。パイナップル(pineapple)。バナナ(banana)。クラッカー(cracker)。チーズ(cheese)。コーヒー(coffee)。
当時の日本は、階級社会(昔は、貧しい人々は、本当に、貧しかったし、庶民の、食生活・物質的な生活も、現代に比べると、遥かに(ずっと)、貧しかった)、現代の日本は、大衆社会(庶民が、豊かで、又、貧困層でも、福祉制度等により、自動車を保有し、ある程度の水準の、生活が保障されている)と言う違いもありますが、富裕層・上流層の暮らしは、昔の方が、豪華であったような気がします(こうした、近代以前(第二次世界大戦前の、階級社会)と、現代(第二次世界大戦後の、大量生産・大量消費社会)の、時代の、大きな流れは、一般的に、日本のみならず、他の先進国(アメリカ、ヨーロッパ等)でも、当てはまると思います)。
以下、おまけで、氷川丸(hikawamaru)についてです。写真は、全て、前に、kj、又は、enjoyで、アップ(upload)した写真の再利用です。
向こうに停泊している船は、氷川丸(hikawamaru)。1930年代に、日本と、北米を結ぶ太平洋航路で活躍した、約11,600トン(GT)の、日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船(1930年完成and使用開始)です。現在は使用されておらず、横浜の港(横浜の都心部の海沿い)に永久保存され、文化財に指定されると供に、一般公開されています。1930年代当時、アメリカとカナダの会社も、北米と日本の間に、豪華客船を走らせていましたが、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社も、当時、太平洋航路向けの主要な豪華客船としては、氷川丸(hikawamaru)を含め6隻の豪華客船を保有し、日本の横浜と北米を結んでいました。
写真以下16枚。氷川丸(hikawamaru)。

氷川丸(hikawamaru)のパンフレット(leaflet)。

氷川丸(hikawamaru)の内装。パンフレット(leaflet)より。。。前述の通り、氷川丸(hikawamaru)は、1930年代に、日本と、北米を結ぶ太平洋航路で活躍した、約11,600トン(GT)の、日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船(1930年完成and使用開始)です。
写真以下11枚。氷川丸(hikawamaru)の船内。氷川丸(hikawamaru)は、1930年代当時の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の他の日本とシアトル(seattle)、バンクーバー(Vancouver)を結ぶ、主な豪華客船2隻と同じで、1930年代当時の、同社の日本とサンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ、主な豪華客船3隻よりも小さく、また、豪華さにおいても、劣っていましたが、喜劇俳優Chaplinが、1932年に来日した際、アメリカに帰る際に、使用しました(Chaplinは、1932年に1回、1936年に2回と、第二次世界大戦前に3回来日しています)。

氷川丸(hikawamaru)の内装例。
写真以下2枚。一等(first class)食堂(dining room・レストラン)。

氷川丸(hikawamaru)の内装例。
写真以下3枚。一等(first class)社交室(乗客が、くつろいだり、交流したりする部屋)。


一等(first class)喫煙室(smoking room)。
写真以下4枚。一等(first class)特別客室(deluxe room)。
写真以下2枚。一等(first class)特別客室(deluxe room)の寝室(bedroom)。


一等(first class)特別客室(deluxe room)の居間(living room)。

一等(first class)特別客室(deluxe room)の風呂。
写真以下2枚。氷川丸(hikawamaru)の船内の、資料展示の中から。。。
1930年代の、氷川丸(hikawamaru)の、一等(first class)の乗客の、一日の船内での過ごし方の例です。6時に起床。6時から6時半、朝のコーヒー(coffee)を飲む。6時半から8時、船内、デッキ(deck)等を散歩。8時から8時半、朝食。8時半から11時、デッキ(deck)でゴルフ(golf)を楽しむ。11時から11時半、ビーフスープ(beef soup)とクラッカー(cracker)で一息。11時半から12時、デッキ(deck)で輪投げ(quoits)を楽しむ。12時から13時、昼食。13時から15時、昼寝。15時から15時半、アフタヌーンティー(afternoon tea)。15時半から19時、喫煙室(smoking room)(酒(アルコール(alcoholic)飲料)も、煙草も、上級品ばかり揃っていた)で、カードゲーム(card game)を楽しむ。19時から20時半、夕食。20時半から22時、ダンスパーティー(dance party)、映画鑑賞等。22時から22時半、夜食。22時半から23時、手紙を書いたり、入浴等。23時、就寝。
記憶が曖昧ですが、確か、氷川丸(hikawamaru)で、実際に使用された、乗客に、ダンスパーティー(dance party)の開催等を、知らせる、張り紙。

第二次世界大戦前は、当然、日本と北米を結ぶ定期航空路線等無かったので、豪華客船とは言っても、「調度現在と同じ様な豪華客船の船の旅」を楽しむ富裕層以外に、北米等の外国に移民する目的の者や、公費(奨学金)留学生等(ちなみに、当時は、親が留学費用の全額を負担してくれる様な私費留学は、金持ち・上流階級の子供のみ可能で、通常は、この様な、金持ち・上流階級の子供は、一等(first
class)の客室を利用した)、とにかく、出来るだけ安く外国に移動又は外国から帰国出来れば良いと言う人々(調度現在で言えば、国際航空路線で、economy classを利用する人々)も運ぶ必要がありました。写真は、氷川丸(hikawamaru)で、最も運賃の安い、三等(third class)の客室です。調度現在の飛行機のeconomy classに該当します。三等(third class)の客室の利用客は、食事等も、一等(first
class)とは区別され、焼き魚(焼いた魚)の様な、日本の、大衆的な家庭料理が中心でした。
ちなみに、前に紹介した、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、アメリカで俳優として成功した後は、国際間の移動は、当然、日本国内外の(日本、アメリカ、ヨーロッパの)、豪華客船の、一等(first class)の客室を利用していたと思いますが、最初に、日本から、アメリカに渡った時は、おそらく、この様な、三等(third class)の客室を利用したと思います。早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、裕福な、漁師(fisherman)の家に生まれましたが、おそらく、当時の日本において、一般的な、裕福な、漁師(fisherman)の家ならば、裕福とは言っても、金持ち・上流階級の家とは異なり、子供の、遠い外国への移動の、豪華客船の、一等(first class)の客室の運賃を支出する程の、経済的な、余裕(ゆとり)は無かったと思います。
早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)に関しては、以下の投稿を参照して下さい。
日本人Hollywoodスター→
http://www.kjclub.com/kr/exchange/photo/read.php?uid=9351&fid=9351&thread=1000000&idx=1&page=1&tname=exc_board_14&number=10&f=a.name&word=jlemon
以下、参考に、関連投稿。現代日本様式(第二次世界大戦前における、日本独特の、豪華客船の、内装の、デザイン(design)・装飾の様式)について。。。
現代日本様式→
http://kjclub.com/kr/exchange/photo/read.php?uid=9379&fid=9379&thread=1000000&idx=1&page=1&tname=exc_board_14&number=5620